今日は朝から晴れ、空気も乾燥していて暑くもなく寒くもなく、快適な一日でした。久しぶりにIHさんとえびすのガーデン・プレースの39階で昼食をともにしましたが、レインボウ・ブリッジ、お台場の観覧車、港区一円が実に良くみえました。こういう日に限って何時も持って歩いいるカメラを忘れてしまい皆さんにその素晴らしい景観をご覧にいれることが出来ないのは残念です。
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ところで昨日ご紹介しました92才の菅野先生の人生はまさに波乱万丈そのものでした。かって先生のご経歴を書いた随筆をある会報に発表させて頂いたことがありますので、このホームページでも簡略に報告させて頂きます。長く生きることがいかに意味のあることかを先生の生涯から学べるように思います。 |
先生は仙台藩五十人衆の後裔で少年時代から絵が好きで画家になりたかったそうです。親は役人か会社員になることを期待していたので、高等学校を受験すると偽って上野の美術学校を受け油絵科に合格、そのまま通学していましたが半年後に嘘がばれて退学しました。翌年明治大学に入り親の反対しそうなことはなんでもやってみようとボクシングを始めました。そしてたちまちバンタム級の全日本チャンピョンになり、大学から頼まれて中央大学など三大学のコーチに行きました。ベルリンオリンピックに出場するつもりでいたところ、コーチとして謝礼を受けていたことがアマ規定違反に問われ代表選手から外されてしまいました。このことに反逆して卒業と同時にプロになり、プロボクシングの盛んなマニラ、上海、香港を転戦して歩いたそうです。
当時の観客は血が飛び散らないと満足しないので、いつも血だらけの戦いだったそうです。そういった中にあって彼は打たれることが少なく常に返り血を浴びるほうであったそうです。たまたまフォードの極東支配人が彼の闘いぶりを見て、セールスマンの資質を認め、彼を説得してフォードの社員にしました。やがて極東の情勢は風雲急を告げフォードは撤退を余儀なくされました。フォードの日本人社員はフォード、GMと入れ替わって国産トラックを生産開始したばかりのトヨタあるいは日産の販売会社に転職しました(1935年頃と推定されます)。菅野さんは神谷正太郎さん(後のトヨタ自動車販売株式会社社長、会長)が販売部長をしていた東京トヨタ自動車に入社、たちまち月間45台も売るスーパー・セールスマンになりました。この頃のある日、靖国神社境内にあった日本刀の鍛冶場を覗いたのが病みつきで、刀匠本阿弥光美のもとに車のセールスの合間をみて通い、刀打ちを見様見真似で始めました。ある時新刀の展示会で先生の作品が最高の賞を得、毎日新聞に大きく報道されてしまいました。翌日、東京トヨタの吉田(後の東京日産社長)、嶋田(後の埼玉トヨタ社長)および神谷さんの3人に呼び出され、賞をとったのは立派だが車の販売をおろそかにしないよう適当にやれと申し渡されたそうです。太平洋戦争が始まり多くのセールスマンが徴兵、徴用で職を離れていきましたが、彼は陸軍の受命刀匠ということで刀作りが専門になりました。この間光美(江戸本阿弥忠敬の息子)の養子に迎えられ光祐を襲名しました。
戦後はトヨタ自動車販売の神谷社長から依頼されてトヨタ中古自動車(株)の創設に参画され、1961年にトヨタパブリカ太田の専務、1963年東豊トヨペット(現トヨタ・ネッツ東京)に移り1967年60歳になったのを機に退社し自らの趣味に生きる新たな人生を始められました。
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カートリッジの制作に努めるのと平行して少年時代からの夢であった油絵の制作にも努められ、草樹会員としてついこの間まで毎年出展され多くの賞を得ておられます。先生はきっと菅野画伯と呼ばれるのが一番のお喜びでないかと思います。 |
右手右脚がご不自由でも92歳の菅野先生のお顔はつやつやと若々しく見えます。長く生きてしかも充実した日々を送りたいというのが多くの人々の願望だと思いますが、先生はそれが可能なことを身をもって例証して下さっています。一層のご長寿、ご活躍を心からお祈り申し上げます。